2012/06/21

さよなら、またね。おかえり、ただいま。(前半)

今日も今日とて忙しかったです。肉体的にも疲れてるのがきついなあ。

しかし目指せ毎日更新である。そろそろ習慣づいてくれないかしら。一応30分目安で書いてるのでまあなんとかなってる感がありますね。ただタイプも考えるのも遅いので、短くなっちゃうのが自分で見返しても残念な感じです。

さて、今日はタイトルどおり、別れとそれに相対したときの俺の態度(目標)についてのお話です。俺はどうもふらふらしていて筋の通ってない感じの人間なのですが、一個だけ何も考えずに守れてるかなーというのがありまして、それは「自分がされて嫌なことは他人にするな」っていうあれです。始めて聞いたのは幼稚園児のときかなー。たぶんそれ以来ずっと守っている。自分がなんでこうしたのか、と後から行動を振り返ったときに、結局このルールに沿ってるだけだったりすることがよくありますな。

本当のことを言えば、こんな自己中心的なルールではなくて、相手がいる場合は相手が望むように変えるってのがいいんですけど、俺はそれができない。これは想像力の欠如、というよりはむしろ自ら想像することを断っている、というのが近いと思います。他人のことを理解することなど不可能で、理解したつもりになることすら傲慢である、と考えてしまうので、半ば意図的に理解することを放棄する、といった感じでしょうか。

この態度も「自分を理解されたくない」という感情に端を発するものです。ちゃんと理解してくれるのであればまだましですが、理解してもない人間にわかった気になられたらめっちゃ腹立つじゃないですか。それを他人に対してやるくらいなら、自己完結したルールで接して、相手に「あいつはわかってない」と思われたほうがよっぽどいい。

理屈としてはこんな感じです。だからこれから話す「別れの態度」についても、結局のところ、俺が誰かのもとを去るときに「こうされたくない」といった考えに基づいたものになります。

さて、本題。序文なげえよ。

俺に好きなひとがいたとして、そのひとが(俺から見て)唐突に自分の観測可能な範囲からいなくなったと仮定します。

相手が「さよなら」を言ったか言わなかったに関わらず、ここで俺には3つの選択肢が生まれます。そのひとに「さよなら」を言うか、「またね」と言うか、何も言わないか、ですね。ここで俺が何を選ぶかというと、3つ目の「何も言わない」です。

なぜか。まず、「さよなら」を言うのは問題外です。だって俺はそのひとのことが好きだから。本当は別れたくなんて全くないのだから。

次に、「またね」ですが、これもだめです。これにはいくつか理由があるんですが、一つ目は俺が誰かに何かを期待するような言動を決してできないから、というものです。期待されるのが嬉しいってひともいると思うけど、俺は何かを期待されるのがとても怖い。これは期待されてそれに応える、という経験が絶対的に不足しているからだと思うんですが、いつごろからだろう、中学生ぐらいのときにはすでに恐怖心があったような気がします。そのせいで、軽い期待ですら他人に向けることをしないようにしています。軽いってのは例えば、「あれやっといて」とか、誘うとか、「書いてくれると嬉しい」とかです。期待はしない。出てきたものを褒めるのは全く抵抗なくできるんですが、これもギリギリですよね、今考えてみると。褒めること自体が期待になりうる。ただまあ、自分の中での線引きは、「期待はしないが出てきたものは褒める」ぐらいでこれからもいこうと思います。

もう一つの理由は、相手の俺に対する思いの強さと、俺の相手に対する思いの強さの非対称性に起因したものです。俺が相手のことを1好きだとして、相手が俺をどれだけ好きかはわからない。1であれば嬉しいですけど、相手からみれば俺はその他大勢(n人)のうちの一人であって、1/nしか好きでないのかもしれない。認識すらされていなければ当然ながら0です。1/nや0のときに相手に何かを要求するのは、傲慢だと思う。そして、相手が自分のことをどう思っているかだなんて、(俺の考え方で言えば)決してわからない。

「またね」という資格は俺にはなく、「さよなら」は言いたくない。だから、沈黙するしかない。

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30分経ってしまったので続きはまた明日にしようと思います。では