2015/04/04

『たまゆら~卒業写真~』 第1部 芽-きざし-

たまゆらの映画見てきた。すごく良かった。沢渡楓という少女の高三の春を表情という点を中心に見事に切り取ってあった。竹原がぽってを包むのと同じ手つきで、である。

観ている間、ずっと妙な感慨があってほとんどずっとぼろぼろ泣いてたりしたわけだけど、この感慨はやっぱり「ぽってももう高校三年生だ」というところに根付いている。嗚咽しそうにもなったが必死でこらえて椅子の背もたれががくがくしてたのは隣のひとにバレていただろうか。

ただ嗚咽しなかっただけでも頑張ったほうだ。この映画は確実に何かしらの到達点だろうと思う。映画で最初に映る「今」のぽっての表情を見て、まず気がつくのは髪型の変化だ。少し短くなった。はねてボリュームのあった部分が少しすっきりとしている。不足のある表現で言えば、大人っぽくなった。そこに芽(きざし)を幻視する。

たまゆらというアニメは、沢渡楓という少女の時間を描いた物語である。彼女の誕生から今に至るまでの写真によって切り取られた世界の中のぽって。ぽってが映す写真によって切り取られたぽっての見る世界。そして彼女の心をBGMのようにして流れる時間が、時間の流れと不可分な動画として表現される。

そうした時間の中に幻視した兆しはわずかな髪型の変化であったりする。例えばぽっての髪型がわずかに変わったことは、ぽってを今初めて見た人には決してわからない。だから俺はこの兆しを頭に入れて時間を眺めていく。三年生になって写真部に新入部員が二人入ってくる。部活紹介でのぽっては一年前とは違っている。彼女の言葉でちゃんと伝えていて、それが届いて後輩ができた。かなえ先輩とは違う、後輩。

放課後の部活動でのぽってはちゃんと先輩部長をやっている。ちゃんと指示できてるし、後輩にも好かれている。しっかりしてんだこの子は。そのしっかりさは、ぼーっと自転車を押して道を歩きながら、自分の将来を漠然と渾然と考えてぼやっとしたものを束ねていく過程で生まれたのかもしれない。兆しは常にぽっての中にある。

決然とした言葉や表情は今までとは違って迷いがない。不安はあったとしても彼女の肉体には芯ができ始めている。見たことがない表情は、髪型のせいかひどく大人びている。

その一方で、友達と一緒にいるときに見せる表情はこれまでと同じものであり、カメラマンの姉ちゃんが竹原を離れると知って「いなくなっちゃう」と思った顔はひどく幼い。映画を見る前、ロングPVを観た時にはこの振れ幅をアンバランスな同居と捉えたが、これは不安定なつりあいと言った方が良い。「今」のぽってにおいて完全にバランスしているのだから。

その動的平衡は竹原に包まれて育まれたものだ。そして竹原とはぽってが育っていくための空間であり、時間である。トートロジーの中心にぽってがいる。この映画のEDでぽってが手を伸ばす夜空は、ぽってに触れないが、彼女が育つ世界を作っている。その中でぽっては高校三年生になって「しっかり」している。だから作中の言葉どおり「ぽっては大丈夫」だと思える。

この感慨は、俺の中の欲望の澱のようなものを蒸発させていく類のものだ。たまゆらを見ると何かがどうでも良くなるのだが、その何かの答えはそろそろ明言しても良いかもしれない。この何かとは、俺自身のことである。

ただまあ、これが本来どのような立場の人間による目線なのかは、もう少し明言せずにいくことにしよう。補償ではない、と言い切ることもしないけれど。