2012/05/27

『オブザデッド・マニアックス』 感想

大樹連司『オブザデッド・マニアックス』を読んだ。あらすじを裏表紙から引用すると、
授業中、いつも妄想していた。もしも今、この学校をゾンビたちが襲ってくれたら――。恐怖の叫び声を上げ逃げ惑うクラスメイトたち。何もできずおろおろする先生……。ざまあ見ろ、最高だ! ゾンビ映画ばかり観て現実と向き合えない高校生・丈二。しかし、嫌々参加したクラスメイトとの夏の合宿で、本物のゾンビハザードが丈二とクラスメイトを襲う! ボンクラでオタクな僕が、みんなを救ってヒーローになる!? さらに学校一の美少女も思いのままに!? 怨念じみた妄想が現実になったとき、待ち受けるのは天国か、それとも地獄か!?
ということで、これだけ読むと妄想が現実になって主人公がヒーローでハーレムでうははは展開を予想するのだけれど、完全に裏切られた。

一回目読み終わった直後のツイートがこれ
オブザデッド・マニアックスのメッセージ、さすがに危険物すぎると思う。これは確かに欲しかった言葉なのだけれど、実際につきつけられてみると戸惑うしかなくなる
極めてメッセージ性の強い物語だった。クソみたいな日常を生きていて逃げるように物語を消費しつづける人間にとっては。このツイートで言っているように、一見したところ、そういった人間に対する肯定のメッセージのように感じたのだけれど、どうにも違和感があったので再読した。だいぶ考えがまとまったので感想をまとめておく。ネタバレ満載。








この物語は、クソみたいな日常を生きている二人のゾンビ(映画)オタクの対比を描いた物語だ。主人公である丈二と、ヒロインの莉桜。

丈二は、スクールカーストの最底辺(第三階級)に属しているゾンビ映画オタクだ。見えないルールによって、明確な理由も存在せず組み上げられた教室というカースト社会。彼にとっては教室の連中は、飢えを満たすために流行に飛びつき、群れ、異質な人間を排除し、自分と同化させようとするゾンビだった。彼は妄想する。この日常が壊れ、自らがヒーローになり、美少女を救う。そんな異世界ファンタジーを。

一方、莉桜はスクールカーストの中層(第二階級)に属しているゾンビオタクだ。彼女も丈二と同じく、ゾンビハザードの到来を願っていた。彼女が丈二と違って第二階級にいたのは、見えないルールに適応し、「クラスの誰にでも優しく、知的な莉桜さん」というゾンビに擬態することで日常をサヴァイヴしていたからだ。

丈二との決定的な違いはここにある。丈二は第三階級にいたが、あくまでゾンビ世界における人間として生きていた。主人公ではなかったが、確かに人間であった。物語序盤で彼はこう言っている。
教室で生き残るには、ゾンビで埋め尽くされた地上をサヴァイヴするのと同じだけの知恵と覚悟がいる――戦うための知恵と、耐え抜く覚悟が。
そう、はじめから彼らは違っていたのだ。それが、夏期合宿、孤島でゾンビハザードが始まってしまった後の彼らの行動の違いになって表れる。

莉桜は自らのゾンビ者(ゾンビオタク)としての知識を元にゾンビに対して適切に対処し、クラスの連中からの崇拝を集め、新たなスクールカーストを組み上げる。それは、能力に応じた、明確なルールに基づいたカーストだ。彼女はその世界において第一階級の頂点に君臨し、かつて自分たちを虐げていた人間に復讐する。

莉桜は自らと同じゾンビ者である丈二を誘う。日常は壊れて非日常が始まった。被害者である私達は、かつて第一階級にいた連中に復讐する権利がある。そして最後には、非日常の楽園で、教室もろとも滅びよう、と。

丈二は、これに首肯できない。彼らの望みは日常の崩壊という点で共通しているように見える。では、何が違う?

莉桜は日常を支配していた見えないルールを壊したかった。
丈二は日常を支配するその構造こそを壊したかった。

丈二からすれば莉音の作り上げた非日常の楽園は、ルールのみが変わった日常でしかない。そこで強者になることで、強者のみに許される自由によって、ルールをあたかも無視したかのように振る舞い、ヒーローになることはできただろう。でも、それじゃ意味が無い。それではゾンビの一員になってしまう。

ここで重要な役割をしているのが、古内というキャラクターである。古内は、もともとのスクールカーストで第一階級に位置していたが、ルールを無視して「ぼっちもお姫さまも、教室の階級も関係ない」ように振舞っていた。これは、ゾンビハザードがはじまる前の丈二から見れば、ただの強者にのみ許された自由にしか見えなかったはずだ。

だが、彼は莉桜が組み直した新たな日常において、第三階級に堕とされてもなお、ルールから自由だった。丈二の言い訳はここで敗北した。そして、初めて明確に認識する。自分の望みは、日常の崩壊である、と。いや、それは正確ではない。日常を壊す必要などないのだ。日常から自由なヒーローにとっては、日常などどうでもいいのだから。

もうゾンビハザードのような非日常は不要なのだ。

丈二は莉桜と対決し、莉桜の作り上げた非日常を破壊する。やっぱりかつての日常の基準においてカッコイイところを持っていくのは古内だったけれど。それはもうどうでもいいのだ。

***

ここまではOKだ。こっから先が納得できなかった。

敗れた後、莉桜は一人でゾンビになってしまおうと思っていた。そこに丈二が現れる。彼はここで、かつてずっと妄想していたように、美少女と二人、ゾンビになって死ぬこともできた。だけど、彼はここで莉桜を説得する。
ゾンビになったら、ゾンビ映画は見られない! 
教室での鬱屈があるからこそ映画も楽しいんだって。
帰ろう。そしてゾンビ映画を観に行こう。
そして彼らはかつての日常に生還し、映画を観に行く。丈二の最後の言葉は、こうだ。
僕はもう、ゾンビハザードを望まない。
映画館の中のゾンビたちさえいれば、僕は、もう十分だ。
…この結論に納得できない。なんで、日常をスパイスみたいに扱うのか。それとは無関係に、それから自由に存在できるというメッセージこそ欲しかったものなんだよね。物語さえあればそれでいいというメッセージが欲しかった。

それが嘘でもかまわないから。

2012/05/04

自動人間

何もやる気が起きなくて1日中寝ていた。

ベッドに入って半分寝たような状態でつらつら考えてたんだけど、俺って本当に意欲とかないなー、と。

最近どんどん酷くなってる気がする。自分から〇〇するってのがないんだよなぁ。気づけば自分から人に会ったのなんてもう十年くらいないっぽいし、会うどころか連絡した記憶もない。

別に人間嫌いとかではないです。中島なんちゃらさんみたく嫌いだから接触しないわけじゃなく、どうでもいいんですね。あーでも外乱が怖いってのはあるか。

どうでもいいって感覚はいろいろあって、身近なところでは食事と服装。食事に関しては毎日同じもの食ってたりする。服装は同じ服を何着も買うっていうあれです。けっこういるんですかねこういうひと。

休みの日もほっといたら飯もろくに食わずに家で寝てるし。エロゲやってるときは一番元気なときですね。どうでもいい情報ですが、エロゲ→アニメ→本→何もしない、といった順で調子が判別可能なようです。

話を戻そう。自分にとってどうでもいいものを探して、そーいうの片っ端から全部システム化してしまって、思考から取り除きたい。毎日同じ時間に起きて毎日同じ服着て毎日同じもん食って。

仕事に関しては命令されたことだけやりたいなー。自発的にとか、創意工夫とかそういうのいらないから。あとできるだけ楽しくないほうがいい。ガキの考えのままなんだけど、楽しんで金もらうのはダメだ。まあつらいのもいやですけど、何も感じずに歯車になってぐるぐると回ってたい。

考える要素を減らして何にも感じず毎日同じことしていく。変化とかなしに。それがやっぱり俺にとっての理想です。だってそれが一番楽だもん。

働かずに死ぬってのはどうなんだろ。まあとりあえず死にたいと思ったことはないです。消えたい、というのはあるけど。その近似としての死とは結びつかないかな。

なんつーか、死ぬのも能動的な行動じゃないですか。そーいうのもないんですよね。今こうなっているんだから、そのまま変化しないのが一番楽だと思うんですよ。慣性の法則ってやつですか。そんでまあちっちゃな抵抗うけてだんだん減速して、最終的に停止する。

あー、ロボットになりたい。

なりたいんだけど、その先への憧れが残ってるというね。無感動なロボットになって、どうでもいいことばかりを記録していって、それでも何か残るんじゃないかと。どーでも良くない何か。

あるいは、システムを誤作動させて、そこにない不合理な行動を引き起こさせるような何か。「〇〇したい」ではなくて、「〇〇せずにはいられなく」させてくれるような何か。

そんな上手い物語が用意されてると本気で信じてるわけじゃないけど、憧れてしまうもんは仕方ない。そんで、この執着がある限りロボットにはなれないんでしょう。ほんと矛盾してんな。