2012/01/05

助手関連

このへんの話

牧瀬紅莉栖かわいいよねっていったら
牧瀬紅莉栖は「どこにでもいるあざとい萌えキャラ」なのか――特定のキャラクターを好きになるという事について

シロクマ先生のエントリで気になったのが、"データベースでなくキャラクターを愛好するべきだ"と結論しているのになぜかその前で
岡部倫太郎と出会い、ラボメン女子とキャッキャウフフし、タイムマシン実験にのめり込み、白衣が似合い、「ぬるぽ」と言えば即座に「ガッ」と応じ、秋葉原で「処女で悪いか!」と叫んだキャラクターは、世の中には他にいない。タイムマシンの使用を自らに禁じ、一度きりの運命について自分なりの哲学を持ち、別れのメールにホラティウスを引用するキャラクターも、たぶんいないだろう。
とか、
似たようなキャラクターは数多あれど実際にはみんな違っていて、細かな点まで含めてみれば換えが効くわけではない
とか言っているところ。

細かな点であろうと、それは結局細分化されたデータベースでしかないと思うんですよね。自分の好む要素の集合としてキャラクターを分解してしまうのは、要素のスカラー和としてキャラクターを考えてるってことだから。

『貧乳』というラベルが+に作用するか-に作用するかも、『別れのメールにホラティウスを引用する』という要素が+に作用するか-に作用するかも、まあ陳腐ですが文脈依存なわけで。この文脈ってのは前だけじゃなくて後も含みます。なんとなく桐乃が思い浮かんだので桐乃でいうと、「さんざんほったらかしにしておいたくせに、いまさら兄貴面すんな!」で全てが転回したわけです。以前の行動も、その後の行動の意味もぜんぶひっくり返りましたもん(てかあれだけで生きていける。もうデレなくていいです)。


しいて言えば音楽みたいなもんなんじゃないかと思うわけです。トータルとしてこの曲が好き、と同じで、先にくるのはこのキャラクターが好き、なのであって、キャラクターが好きな理由を音符に分解しても意味ないし、小節に区切っても意味ないんじゃないのかなあ。

だって嫌じゃないですか、例えば万一そんなことがあったとして、『プロポーズの言葉と、背が高いとこと、顔で惚れた』って言われたら。『なんかわかんないけど好き』って言われたいっすよ。