2014/09/25

愚行権うんぬん。アホな記事はおいといて、自信満々なブコメ等みてたら自信なくなってきたので、加藤尚武『現代倫理学入門』11章を再読。

『現代倫理学入門』11章の冒頭で、自由主義の原則として以下の5つが挙げられている。
1. 判断能力のある大人なら、
2. 自分の生命、身体、財産にかんして、
3. 他人に危害を及ぼさない限り、
4. たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、
5. 自己決定の権限をもつ
いわゆる他者危害の原則ですね。

各部分について見ていくと、まず1.で自由主義を認められるのは「判断能力のある大人」に限定されている。なので例えば、親が子を教育して正しい方向に導く、というのは肯定されていて、子供の自由は制限されている。ぱっと思いつくのでも、ポルノは買えない、たばこ、賭博はダメなどなど。もちろん惚けたじいさんばあさん、知的障害者なども対象となるわけですが、この辺りは難しいところなのでとりあえず置いとく。

2.は要するに私的な領域はどこかということを語っている。私の生命も、私の身体も、意思を持つ主体である私のものだと。

3.が「他者危害の原則」と呼ばれる理由になってる項目で、この文面があるから、バイト先の冷蔵庫に入るような自由は認められない。他者の存在によって初めて合意が必要となり、合意形成のルールが生まれることを考えれば、自由が「他人に危害を及ぼさない限り」という注釈のもとでのみ成立するというのは自然でしょう。

※ただし、ミルズによれば、ここでの自由というのは、法による規制や処罰の対象にはならないというだけの話であって、世論による処罰の対象にはなるとのこと。要するにアカBANはされないが村八分状態にはされても仕方ないよねと。ただ、リアルにおいて事実上生活が脅かされるレベルの村八分が許されるかというと疑問。生存権が最優先されるはずなので。

さて、愚行権の基礎となる4.について。愚行権を認める理由は要するに「私については私の判断が最優先されるべきだ」ということでしょう(1.が前提されていることに注意)。そもそも価値判断は社会的なものだという主張もありうるが、完全なる自由が他者の存在しない状態でしか成立しないものである以上、前提として個を置かない自由規範は成り立たないと思う。むしろ、社会的な価値判断を含んで初めて「愚」行となる行為に対する権利を認めることこそが、全ての自由に対する基礎となっている。

5.は結論なので特になし。

こうやって見直すと、3.の注釈部分が個人的な思想と反してたのでブコメに違和感あったっぽい。個人的には、他者のある愚行を理由に、その愚行と無関係な部分でのつき合いを変化させてはならないと考えているので。