2024/11/01

謝ってほしいわけじゃないんだよね

今日は華金の夜、疲れ果てたし家でメシ作る気にもなれないし肉でも食って元気だそうと思って牛丼屋に行った。


混んでんなーと思いつつ席につく。カウンターがほぼ埋まってしまっていたのでまだ食べてない若い兄ちゃんの隣に座った。タッチパネルでおろしポン酢牛丼大盛りのサラダセットを注文する。周りを見て気付いたんだが、明らかに食ってる客より待ってる客のほうが多い。これはかなり待つやつだと思い、スマホでWEB小説を読み始める。カクヨムでデーモンルーラーだ。目が滑る。疲れすぎていて何も頭に入ってこない。

隣の兄ちゃんがずっと厨房のほうを見ている。相当待ってるのだろうか。あ、そういやお茶来てないな。まあいいけど忙しそうだし。

横の横の親子に注文した品が届いた。高めの声のおばちゃん店員が「遅くなってすみません」と謝っている。タッチパネルでの注文が2回に分かれていたらしく、商品の到着がずれてしまうことも謝っている。

先のおばちゃん店員が俺の後ろのテーブル席にカレーを届ける。トッピングを忘れたらしく謝っている。「カレーが冷めるといけないので先に持ってきました ほうれん草は後になりますすみません」

順番合ってるのか合ってないのか分からない順番で配膳されていく。俺の右手のほうのテーブル席の3人のうち最後の一人だけ何も届いていないのが気になる。俺はスマホを両手で持ってはいるが目が滑って文字が読めないので持ってるだけだ。あー腹減ったと思っているとおばちゃん店員が「お待たせしてすみませんおろしポン酢牛丼です」と言いながら俺の方にやってきた。

いや、逆に早くね? つーか隣の兄ちゃんの注文まだ届いてないんだがと思いながら盆を見ると明らかにまぐろ丼である。どうやら隣の兄ちゃんのやつだったらしく、おばちゃんは俺の顔を見ながら「すみません」と言い、隣の兄ちゃんに「遅くなってすみませんユッケ丼です」といって盆を渡した。俺はおばちゃんを無視した。

隣の兄ちゃんは食べ始めて少しすると隣の隣の親子と話しだした。家族だったの君等? あと到着時間ズレすぎじゃね?

持ち帰りの客の列も伸びてきた。1人目の姉ちゃんは俺が座ったときからいた気がする。ピンポン音が鳴り、奥の席で「玉子来てないけど」に対して「すみません」という高い声。店内の空気が明らかに悪くなってきている。後ろのカレーの席にトッピングのほうれん草が届いた。客が軽ギレをする。「カレー冷めちゃったんだけど」「すみません温め直します」

高い声の「すみません」が繰り返される牛丼屋で、何でもそうなんだけど、別に謝ってほしいわけじゃないんだよな、と思う。仕事でも何でも。遅くなった、間違えたとかはもう起きてしまっているのだから、謝ってもらってもどうしようもない。イライラした体験や待ち時間がチャラになるわけでもない。謝ってもらったからといって気持ちよくなるわけでもない。申し訳無さそうだったり、真摯にこちらの顔を見てこられても困るだけだ。俺はそれに向き合って、許す行為をしたり表情演技をしなければならないのだろうか? それは俺に負荷をプラスしてはいないか?

謝るという行為が過去に対する何らかの働きかけになっているのがどうにも気に食わない、のかもしれない。俺も「すみません」と意図的に言うときがあるが、それは責任の所在がはっきりしないときに自分の責任だと表明するためのものでしかない。

「遅くなって大変申し訳ございません」の響きと共におろしポン酢牛丼の大盛りとサラダセットが届いた。謝罪がグレードアップしてるなと思いながら味噌汁の具だけ食べているとお茶がようやく届いた。冷たくてうまい。フレンチドレッシングを少量かけてサラダをやっつける。店内のまずい空気からさっさと抜け出たくて急いで牛丼をかっこんでいく。やはりポン酢はさっぱりしてていい。味噌汁の汁とお茶を飲み干して会計に向かう。ここでも並ぶが、こちらはおばちゃんではなく若いバイト君だった。彼が目も合わせず「お待たせしてすみません」の言葉もなく淡々とレジ作業をする姿が心地よく、少しすっきりとした気持ちで店を出た。

2024/09/20

原田マハ

原田マハの既刊を漁り始めました。

移動時間とかラーメン屋の並び待ちとかでまず『本日は、お日柄もよく』を読みまして、この本の著者は言葉の力を信じてんだなーというのが感じられたのがまず最初の感想。スピーチライターという職業(つまり一対多)にスポットライト当てながら、「聞く」という行為とか、一人に向けた言葉だったりそれが継がれていくこととか、あるいは発されなかった言葉も置かれている。エンタメ性をちゃんと両立させているのも良かったです。

その流れで『楽園のカンヴァス』も読んだんですが、まずテキストの段階で『本日は、お日柄もよく』と同一人物が書いたとは思えないのに驚き、こちらはシンプルに真贋鑑定や歴史の謎が置かれていて引き込まれると同時に関係性と時代の複数の線が並行していて、構成としてリッチで単純に面白い。『本日は、お日柄もよく』との共通性で言えば、「感動」とそれが継がれていくという営為に対する視点かな。

2冊でがらりと印象がかわってかついずれもエンタメ性との両立がめちゃめちゃ上手かったので次も買いました。基本的に作家単位で買うタイプなんすよね。

2024/05/05

ネタバレ平気な俺の思考

 最近『葉桜の季節に君を想うということ』を読みまして、で、この作品っていわゆる叙述トリックものなんですが、叙述トリックものだということは知った状態で読んだわけです。

俺はネタバレ全く気にならないタイプで、一方で世の中ではネタバレ嫌いな方のほうが多い印象なので、せっかくなので叙述トリックがあると知った状態での自分の読み方を記録しておこうかなとふと思いついたのでブログ書いてます。

叙述トリックがある小説なんだなーと知って読み始めるわけですが、別に叙述トリックを暴いてやろうと思いながら読むわけではなく普通に読みます。けっこう面白い。タイトルと表紙だと澄んだ感じの内容かなと思ってたんだけど意外と猥雑で軽い感じなのね、とか。

主人公はあんまり好きなタイプじゃないなーとか、古屋節子の心理描写もっとがっちりやったらいいのにとかまあそういう普通の感想を持ちながら読んでく。最後のほうはわりと忙しい印象のほうが強くて、叙述トリックのところに衝撃を受けるわけでもなく、なるほど辻褄合うなーという感想。

で、これは叙述トリックがあると知ってたから衝撃が少なかったのか、と考えたんだけど、そういうわけじゃないと思うんですよね。別にストーリーを知ってる物語だったとしても感動するし、知らなくてどんでん返しがあっても面白くないものは面白くない。

もしかしたら初回の衝撃が薄まる?ネタバレ嫌いなひとは体験を重視してるのかしら?って思ったんだけど、ネタバレってあらすじで体験ではないよなとも思う。エロゲでこの子と最終的にセックスするんですよって知ってたからと言って俺の体験(意味深)は変わらないわけじゃないですか。

ネタバレ嫌いなひとの心理やっぱわかんないので詳述したの読みたい。ネタバレするひとを嫌う心理ならわかるんだけど。

2024/02/08

サンクチュアリ2話まで

浅草キッドを見たくてネトフリ入ったのでついでにサンクチュアリを見始めました。

2話まで見た感想としては、めっちゃドラマドラマしてるというもの。ベタに青春をしてベタに若者をやって、ベタに人気の出そうな元ヤンで出自に暗いところがある力士を主人公にしてる。女性の使い方もそう。

ただ、明らかに良いのは、静止した映像の使い方(写真が印象的に使われているのもそう)。時間がリッチに使われていて、その一方で説明を省く部分が多い。ベタな部分をベタに描くから印象に残りやすくもなってる。ベタな部分で思考を省けるので、そうでない部分に観てる側として思考のリソースを割きやすい=気づきやすいってのもある。

いわゆる相撲部屋におけるかわいがりのシーンの動画としての力は強いんだけど、視聴を継続するほどではない。ここまでで出色なのは2話ラストの四股です。主人公の行き場のない感情がやっと行き先(大地)に向けられたというのが美しい。

何話あるのかどうなるのかも知らないですが、しばらく見てみようと思います。

2024/02/05

浅草キッド

浅草キッドを見た。

千春(門脇麦)の演技だけでも見る価値がある。彼女がタケを/自分を見る視線は、彼女の人生に居て、居なくなった人を見る視線として完璧だった。私達はたくさんの人に会うけども、人生に居る人は滅多に居ないし、自分を主人公にすることも全員ができるわけではない。

師匠(大泉洋)とタケ(柳楽優弥)の演技が特筆すべきほどいいは思わないが、再開のシーンで小遣いから遅れて師匠がボケるシーンは、彼のブランクも表現されているから素晴らしい。その後、いい服を着ている(つまり、残していた)こともタケがハイヒールを揃えた(つまり、覚えていた)のも。忘れなかったもの。

ラストのタップは気障で、気障ったらしくってぴったり。青春に粋は似合わないから。

2024/01/18

松本人志と太田光

文春の記事については触れません。この二人の対比についてつらつらと思い浮かんだことについて。

松本人志で一番印象に残っているのは『寸止め海峡(仮題)』のラストに流れていた言葉。

神が人間をつくったと偉ぶるなら
「それが どうした」
と、言ってやる。
オレは笑いをつくっている。

この傲慢さ、あるいは面白い奴が一番偉いという価値観、ルールメーカーとしての松本人志、俺の笑いを理解できない奴は笑いのセンスがない、という態度は数多くの(正誤は問わず)フォロワーを産んだ。俗っぽく言えば面白ければモテる、ということ。

一方で太田光の言葉で印象的なのは、太田上田での以下の言葉。

俺の中には一人の、一人のくたびれたサラリーマンを笑わすっていう、それが俺たちの役割だっていうのが俺の中にあって。
会社から帰ってきたくたびれたさ、サラリーマンかなんだかしんないけどさ、テレビつけるだろ? パッと映ったときに俺がさ「うわぁぁ今日も始まりましたー!」ってやってる。「こいつまたバカなことやってるよ」と「バカだなこの太田ってヤツはクソだ」ってチャンネル変える。
変えられちゃってもいいの。そういうことがその日常の一日疲れて帰ってきた時に、ふとその瞬間、「あぁ太田またバカやってる。俺のがマシだわ」って。そういう役割でもう十分だと思ってるの。

該当のYouTube。6分くらいから。
https://www.youtube.com/watch?v=eruD2nr_SSc

これは彼がよく言うピエロの凄さとも共通する価値観だけども、ピエロは一番偉くもないし、ましてや少年や青年の憧れにもならない。モテそうでもない。井口だったか鬼越だったかが言ってたけど「誰も太田光には憧れない」。

この二人の笑いは正反対で、だから太田光がサンジャポで

もし松本さんが、自分の今までの態度やなんかを、例えば玉座に座っていた王様が転げ落ちるという物語を、自分が面白いと思えるように作れるとするのであれば、その笑いこそが松本さんを救えると思うし。オレは、そういう意味でいうと、松本さんは笑いのすぐとなりにいると思う。

と語ったのは的を完全に外している。それは松本人志の笑いではないし、もしそれをしてしまったら、彼のファン(だった)ひとも彼に憧れたフォロワーは心底がっかりするだろうから。

あ、どうなって欲しいとかはないです。