2018/09/12

ラノベの表紙の話みてて思いだしたんですが、えっちなのはいけませんに対する合意は結局どうなってんのかしら。ふわふわしてるように見えています。ちなみに表紙の件について俺はセカイは分断しようぜ主義なのでゾーニングへの親和性は高いです。だから逆に完全に無くせというのには強く反対するわけですが。これは実空間がひとつしかない時点で、公共の場は私的空間の集合だという思いから来ています。

さて、えっちなのはいけません。についてですが、この主張においてよく引き合いに出されるのは「子供に見せられない」というやつ。ただこれは方便だと俺は感じています。例えば性教育をまともに受けていない子供がえっちなものを見て興味を持つと望まれない妊娠うんぬんとか暴力的なセックスとか言われたりして、なるほどそれはよろしくないんですが、その一方で、コンドーム配布なんかもそうですが、早めの性教育という話もあったりする。

この対処療法自体については良いパッチだと思っていますが、ただ正しいセックスとはなんぞやとなるとまたわかんないよぉ…ってなる。いちゃらぶは正義ということか。いちゃらぶゲーやりたい(あれ?)。ともあれ、いちゃらぶにせよいちゃらぶが性欲と接続されていて、だとすると性欲からセックスを切り離してしまったら例えば異性愛だとただの生殖行為で、それ以外だとなんだろう、いっしょにとれーにんぐ的なことになってしまう。おんなのこがひとりで部屋でうんどう(隠語)をしてるのいいよね……。ところで真面目な話をすると脊柱起立筋は鍛えたほうがいいと切に思います。最近つかれてサボりつづけてたけどそろそろ涼しくなったし再開せねば。

さて、いちゃらぶちゅっちゅ愛情☆MAXからのセックスが正しいとしましょう。では、愛情のあるセックスの本が本屋にあふれたとして自分の子供にそれを見せたいのか?という疑問が出てくる。なぜコウノトリさんはOKなのか(「コウノトリさんです~」ってここなちゃんが言ってる絵が浮かんでいるようです)

お父さんとお母さんはいちゃらぶちゅっちゅからのセックスしてお前が生まれたんだよ、と言えるひとが大多数なのかという疑問があります。もちろんわかりゃしないんですが。それなりにいちゃらぶセックスなイベントシーンをモニター越しに眺めて涙が出てきた記憶で言うと、いちゃらぶセックスは、それが二人だけの秘密だよ(はぁと)ってなってて欲しいんですよね。つまり、極めて私的であると同時に、特定の相手のみに共有されている。

だから、えっちなのはいけません。は俺は私的空間に隠されていて欲しいということだと思っています。だから、キモいという主張は表紙の絵自体に対してではなく、それが公的空間に開示されていること自体に対する拒否反応なんじゃないかなとゲスパーしてしまっている。ただこれだと路チューとかへの拒否反応と一緒になってしまうし、夜は娼婦と同じラインに乗ってしまうのでは?という疑問も出てくる。

とするとヒロインが性的な絵で陳列されていること自体が問題なのだろうというところに結局もどってくる。あるいはこれで勃起するひとがいると想像させること自体がキモいというところですね。個人的な意見としては、後者を直接的に問題視するのが私的空間への干渉だとしても、一方で自分の属性がそのように知らいないひとにまなざされるものだ(あえてまなざしという言葉を使っています)というのは、まとわりついて気持ちが悪いので、某先生には賛成です。

なんかだらだら書いてて思ったのは、結局本屋はパブリックか、という問いに帰着するなと。もっと細かく言えば、俺は少女漫画コーナーは誰もいないときにそしらぬ顔で行きますが、少女漫画コーナーが18禁みたいな垂れ幕で分離されてしまっていたら入りやすかったりするのかな、とか。まあ最初に書いたとおり、ゾーニングに親和性が高いひとの繰り言ですが。

んー。

2018/08/29

"「インターネットは人びとを分断しているのではないか」という懸念" という文字列を見たので。あの記事の本筋とは全く関係ありません。

死刑の話だとか再犯の話とかでも思ったんだけど、結局のところ世界が一つしかないことが問題なんだろうなと思うことがままあります。殺人鬼と同じ場所にいられるか!ってやつは俺もふつうに同意しますし。そんで問題なのは、殺人鬼と同じ世界にいられるか!と言って出て行ける別の世界は存在しない点なんじゃないかなと。

ところで、ネット/リアルなんて言ってたころは表現にすでに分断が現れているわけですが、それが悪いことだったとは俺は思っていない。さらに、ネットワークというのは、分断が容易なように設計されている。少なくとも実世界よりはずっと。システムの話でなくても、サイトでのコメント欄の違いとかもっと細かくクラスタうんぬんでも集合の性質が違ってたりする。いろんな国に分かれているみたいに。ただこれ、移動が容易に出来るんですよ。

国境のようなもので分断された世界が問題になるのは、もし最悪の場所に自分が所属していたときに、そこに所属し続けなければならないというのが一番だと思うんですよね。まあ衝突そのもののほうが問題だと言うのであれば、グローバルなルールを作るなりするしかないですが、それは当然均一化を含んでいる。

俺はそれよりは、せっかく移動が容易でありながら分断ができる道具を手に入れたのであれば、有効活用したほうがいいんじゃないかなと思ったりします。まあもう無理かなとも思うんですが。どうやら人間は人間に実際に会うのが好きらしいので。

2018/08/28

ダンス・ダンス・ダンス

拘束されているというならば、しがらみや集団だとか重力だとかよりもっとずっと自分の身体に縛られている。

重力や大気からの、まとわりつく全てからの解放を跳ぶことで表現するのだとして、なぜその時に手を伸ばさなければならないのか。鍛えられた肉体で魅せているという単純な話なのか。

手を伸ばすという行為はその先のものを目的としている。まだ手に入っていないもの。自分に属していないもの。

踊ることは、おそらく最終的に非身体性を求めている。

2018/08/16

TLに書くのもアレなので。

家族計画というゲームがあります。かわいいホームレスJCがハチマキを巻いて初セックスに挑んで失敗してもめげずに処女膜を破るゲームです。末莉の言葉はブスブスくるよね。俺の心の処女膜が破られっぱなしだった記憶があります(上手いこと言った気になってる

さて。家族計画は家族モノなのかというのが気になりまして、というのは俺の中では家族モノとして認識されてなかったからです。もちろんある種の群れの話としては認識しているんですが、家族と言われるとピンとこない。まず最初に思ったのは、これはたぶん家族というものを血縁ベースで考えているというのがあるのかもしれないなと。例えば自分の中の認識としての実妹/義妹の区別の仕方なんかもそうですけど。義妹をどっちかといえば幼なじみ的に認識していたり。ただ、幼なじみは扉という境界があるという意味でまた大きな違いがあるんですけど。

でも例えば2人の家族で血が繋がっていないのなんかいくらでもあるわけで、おかしな話っちゃーおかしいですよね。逆に家族モノとして認識されてるものを探したほうがいいのかしら。と思ってエロスケで「家族っていいなぁ」を見たりしたんですが、こん中のやったことあるゲームで「家族っていいなぁ」を置いといて家族モノ感があるのは『夏の雨』くらいであんまり参考にはならない。

解散宣言が効いているのかと考えてみる。また別の方角として、家族のような会社だったり部活だったりという(気持ちの悪い)ワードを考えてみる。後者に「家族のような」を使うのはすっと入る。だとすると、解散可能であること、これは逆に言うと再び構成することの容易さでもあるわけですが、が俺の中での家族概念と対立しているのかしら。

だから家族よりむしろ、付いたり離れたりというのが容易な友達?の群れ、それは秘密基地にたむろしても良い、といったほうが認識としては近いっぽいっすね。

自分の脳内把握はわかったけどなんだこの自己分析。

あともしあのゲームが家族概念をアップデートするものだとしたらごめんなさい。読めてなかったっつー話でしかないし。

2018/08/15

グランクラスに乗ったのでメモ。

一番良いところはシートですかね。背もたれ・座シート・フットレストの3ヶ所それぞれ独立に電動で動かせるのでフィットする位置が見つかる。背もたれも後ろを気にせず45度だっけか倒せるし。振動も減ってるからか熟睡しました。むしろふだんはトンネル多いと耳痛くなって目が覚めることが多いんですが、それがなかったせいで起きたときにここ最近無かったレベルで耳が詰まっててめっちゃ痛かったっす(だめじゃん

その他設備に関して言うと座席周りの収納はいまいち。まあそんなに置くものないんですが、寝るときにスマホどこに置こうか迷いました。PC使うのは、前の席と食事台が独立してるので振動気にしなくていいのは良いところかも。ただ、あのレベルの椅子なら寝っ転がりたいのであんまり意味ない気がする。そもそも普段特急とか新幹線とかでPC使うときは文字通りラップトップしてるし。

食事。まあ機内食って感じ(褒めてない)。ドリンク類飲み放題はよいですね。寝てたのでりんごジュースと寝起きのホットコーヒーしか飲んでないけど。あとはなんだろう、乗ったときにあつしぼが出たのは地味に嬉しい。

こんなとこか。普通車空いてなかったらまた乗ってもいいかしら。

2018/08/11

スライドうんぬん書いたらはてなのトップにサマータイム関連のスライド出てたので見てたんですが、きれいに1個前のエントリで良くないと書いた構造になっててほへーってなったり。政治的なのであの構造で良いと思います。

ただ、例えば4~5年かかるだとか3000億円というような数字は、それを納得させる理由付けが書かれなければダメなので、主張でしかない(読み手に判断がつけられない)んですよね。そういう点で出来が悪いなという印象。

ちなみに俺個人はサマータイムは反対ですが、やらなくて済んできたことをやること自体に反対である、というのが主たる理由です。保守的ですな。

あとオリンピック関係の話見てて考えてたのは、政治をやっているひとの見方として、オリンピックが祭りの大きなものとして捉えられているんだろうなと。サマータイム2年だけあたりからですね。で、例えば祭りだって、歩行者天国は交通規制を要求するし、花火は興味のないひとや生活時間がずれたひとには騒音でしかない。それが許容されているのは、同時に参加して楽しめる可能性が存在しているのと、「昔からずっとやってきた」というあたりが効いてんじゃないかと思うんですよね。

祭り以外の例を出すと、マラソン。うちの近くでも年に数回やってますが、あれも興味のないひとからしたらただの交通規制でしかない。たぶん祭りよりは興味のないひとが多いんじゃないかしら。でも別にうざいからやめろとまでは少なくとも俺の場合はならなくて、午前中のこの時間は家に居ようとなる程度です。この観点から見ると、祭りも同様ですが、短時間の迷惑かどうかも重要そうに思える。極稀に大きな音がアパートの隣の部屋から聞こえても平気ですが、毎日だとっていう。

そんでオリンピックですが、これなんかは期間がけっこう長く、地域にとっては突発的なイベントです。さらに反発が来るのが、「東京」オリンピックだという点で、そのくせサマータイム等々は東京だけではない範囲に影響が及ぶ。となり町のイベントでうちまで迷惑がかかっちゃ納得しねーよなと。

そういう意味では、如何にもな東京一極集中の現れも感じたり。

2018/08/09

若い子のスライドにケチつけててふと思ったこと。

スライド作るときの基本方針として「スライド(講演)は1方向で受け手が一時停止や巻き戻しができないので、引っかかりをゼロにする」というのがあります。もう少し具体的に言うと、そこまで開示された情報+聞き手の知識量においてすっと理解できない情報は出さない。

で、今回べつに良いスライドとはという話をしたいわけではなくて、この基本方針って「受け手は理解しようという態度で聞いてくれる」というのを前提にしてるなとふと思いまして。つまり基本的には善意のコミュニティ内でのコミュニケーションで、だから相手になるべく負荷をかけない方針になると。逆に、聞く気がないやつは相手にしないことになるわけですが。

たぶん聞く気がない相手を前提にしてたら、まず最初にするのはむしろ「引っかかり」をつくることで、広告に代表されるようなものに向かっていくんじゃないかしら。たまにスライド内で質問→答えみたいな流れを作る子がいるんですが(これ確か前話題になってたっけ)、これなんかは引っかかりを作りに行っているパターンで、そういう場所ではないよとコメントしたりします。

もうちょい書くことあるかと思ったけどあっさり終わったな。まあいいか。

2018/08/05

雑多なことを書いてみます。

まずこれ。

スマホのカメラで写真を撮ることがほとんどない
https://anond.hatelabo.jp/20180804215900

俺もプライベートでは写真を撮らないことにしてます。ことにしている、というわけで意図的なわけですが、この増田の言うように今に集中するというよりは、ぼーっと見たときに意識に引っかからなかったものは覚えないようにしているというほうが近いです。このなるべく覚えないようにするというのは、俺の記憶が正しければ小学生くらいのときに読んだ広中平祐の『[可変志向]で創造しよう』(https://www.amazon.co.jp/dp/4334050778)の影響だと思います。しかしうさんくさいタイトルだ。

このあたりはいろんなとこに影響してて、例えば物語を読むときに面白がりにいかない、とかがそうです。引っかかるまではぼけーっと見ているとか。ただ、写真というのは被写体の瞬間を保持すると同時に、撮る側の視点の外部記憶なはずで、それはすごく見たかったりする。つまりぽっての撮った写真集ほしい…

もう1件。医学部入試のやつ。いろいろ見てて思ったのは、大学受験なのに「シューカツ」なのねというもの。コネだとか男女でのゲタだったり、採点基準がパブリックでなかったりするとこですね。ただまあ俺は所謂シューカツをやったことがないひとなのでアレですが。

いずれにせよメインの論点は公平とは何かというところだと思っています。例えば点数だけで決定される。再生産の話とかはありますが、点数だけで決定されるというのが公平だというのはおそらく大部分のひとが合意形成できるんじゃないかしら。

大学受験で言うと、体育大学、音楽大学、美術大学における実技試験。これも問題ないのは明らかです。女子大。これも問題ないだろう。スポーツにおける体重別・性別と同じく。つまり、試験における公平性とは基準(受験資格、採点基準、試験日程すら)が明確であるという点によって担保されている。そこが医学部入試のやつではあやふやだった。

どうも見ていると試験を実施する側あるいはすでにその場で働いている側から見たときに、医学部入試をシューカツの採用試験的に捉えているように思われる節があるわけですが、受験生や、少なくとも医学部入試を受けていない人間からすれば、入試は入試であってズレている。

素人考えでは、もし体力が必要であればそれを試験項目に入れてしまえばいいだろうし、科ごとに要求される像が違うのであれば、そこで分けて試験内容を変えてしまえば良さそうに思えるんだけど、どうなんだろうね。医学部は職業学校ですよ、というのを押し出す感じになりますが、すでにそうなってるわけだし。あ、子育てうんぬんは、男親のほうも育休な時代なので入試じゃなくて職場環境のほうでどうにかすべきだと思います。

その他最近読んだもの。

『お兄ちゃんはおしまい!』お兄ちゃんが女体化して内なる妹nessが漏れ出てお兄ちゃんがえろい。

河合荘11巻。律せんぱいがめんどくさく拗ねて宇佐くんに甘えて最後にはセックスすると思うとつらいきもちになります。

以上。

2018/07/23

Summer Pockets 感想

気が向いたのでサマポケの感想。

とりあえずネタバレ前に(体験版)プレイ前に得てた事前情報について触れておくと、麻枝准がえらい人で新島夕とかが書いてて夏で島で色素薄そうなヒロインの後ろ姿がキービジュアルでよし買うかといったところでした。

で、CLANNAD以降やってないしいまだに真琴ルートのテキストの印象が最大値な麻枝准は置いておいて、新島夕に関して言えば、恋カケに対する唯一の不満、ラストシーンでの(目を閉じた状態での)期待に持っていくまでにglorious daysを要求した件に対する不満がまだ残っている状態でのプレイ開始でした。

そんで体験版やって、あーこれは『へじゃぷ』の話なんだろうなと。この段階では『へじゃぷ』は恐らくデジャブ(=見たことある気がする)に対して、いつか見る気がする、なんじゃないかという妄想です。恋カケじゃねーか。はい。

ほんじゃ以下ネタバレ込みで。












個別ですが、鴎ルートはアナル*マーク前に書いた意味で姫野さんと同じことやってるようにしか見えなかったです。紬ルートは灯台の中で迷う(照らす側)というのに決断主義が思い浮かんでしまって集中できなかったので俺の脳が悪かった感じ。蒼さんルートはわりと好み。しろはルートは、夏休みとしてイベントが並んでいて、これはおそらくALKA(うみちゃん)との対比ではあったのだろうけど、イベントの並んでいなかった自分の小学生のころの記憶とかがつらつら浮かんでしまってあんまり集中してなかった記憶があります。総じて言うと、個別4ルートについて言えば、あまり楽しめませんでした。

このゲームでもっとも興味深かったのはALKA編からPocketのしろはの後ろ姿が映ったCG(発表時に出たあの絵です)までで、けっこう変わったことをやっている。ALKAではうみちゃんがチャーハン作らなくてさみしい状態からスタートして、チャーハン作れるうみちゃんとかがフラッシュバックされたりしながら話が進む。しろはの未来視の話とうみちゃんが過去に戻れる話だとかが展開しながらうみちゃんが過去から未来へと進む時系列から見ると幼児退行していく。

そして、鳥白島という場所、Summer Pocketsというタイトル(ポケットは出し入れを持つ特異点※厳密な意味ではない)、過去だけではなく未来の記憶も持つ蝶がふわふわと浮いている状況が過去と未来を前後不覚にふわふわとさせる。この段階ではまだ、『へじゃぷ』は未来に対する既視感(「未来の思い出」というワードは明示的に出てくる)という意味しかないものだという認識でした。花火のシーンでうみちゃんのいるべき隙間が「あったもの」と同時に未来に埋められるであろう隙間であるように。

そういえばうみちゃんの幼児退行は全く涙腺には来ませんでした(そもそもこのゲームで泣いてはいない。おにギュでは泣いた。こはくかわいい…)が、これは既に俺の中で過去未来の方角は意味を持っていなかったからです。折り紙でうみちゃんが「できた……?」ってしろはの方を見て笑う絵やテキストが独立して十分な強度を持っているにもかかわらず。

そんなこんなしてるうちにちっちゃいこしかいない(かわいい)Pocket編に入るわけですが、ここで「未来の思い出」として映るいろいろなシーンが面白い。見たことのあるシーンだけではなく、見たことがないシーンも、見たことがある気がするシーンも映しだされる。テキスト差分でですね。

ナイーブに言えば「未来の思い出」であって、未来がある程度の不定性を孕んでいるということになる。一方で、未来の思い出も含んだものが鳥白島には雑多に蝶という形状でふわふわと置かれている。整理する前の蔵のように。つまり、鳥白島というポケットは出し入れの区別なく何かを溜めておく場所として配置されている。生まれるかもしれないものと生まれなかったかもしれないものが区別なく。

これがある種の人間に対する慰撫なのか、アイディアしかない物語を意味しているのかはゲスパーが過ぎるのでしりませんが、glorious daysをこの島が前提としているという情報を少なくとも俺は受け取らなかった。だから、「未来の思い出」の中に見たことのないとても綺麗な1枚絵が映ったときはめっちゃ笑いました。ここでか!と。

逆にそこから先の蔵の整理→物語としての締めは、少し残念だったというのが正直なところですが、物語らずにはいられないと言うのであればまあそれはそれでという気持ちもあります。

こんなとこか。おし*まい。