2020/07/01

『ATRI -My Dear Moments-』 感想

ATRIプレイしたので感想書いときます。

読んでいる途中ずっと頭の中にあったのは、「高性能」なロボとはという問いです。

「高性能」という単語は美少女ロボでちっちゃくて元気に手を挙げてドヤ顔してるのでかわいいアトリがよく「高性能ですから!」とか言うし高性能なはだしだったり高性能なのではみがきが上手にできなかったり高性能なおへそ(それは俺の妄想である)だったり高性能なのできれいな水を流すのだろうかとか考えながら読んでしまうので強制的に印象付けられた記憶があります。

一方でアトリは歯磨きが上手にできない(重要)だけでなくて、料理とか掃除とかも別に得意ではなかったりして、一般的にイメージされる高性能なロボットではない(ポンコツは差別語だと学習したぞ)です。主人公くんの失われた足を補償するだけなら、別に義足でも構わないし、高性能な義足であればきっと足としての機能を人型ロボットなどより完全にこなすだろう。幅も取らないし。

では、「高性能」とは何なのか。物語内でいくつもその手がかりとなるだろう場面が置かれていて、例えば体験版終わりくらいの校舎に電気を引くシーン。ここで、アトリがよく嫉妬する相手である主人公の友人、竜司がモノ作ったりして活躍する。主人公くんの脳だけではできなくて、「高性能」な手があったから実現された。つまり、身体が拡張されている。あるいは同じシーンで、電気のない水没した世界の機能不全な初等教育と可能性が明らかにマッチしていない凛々花という少女が「夜でも本が読める」ようになることだとか、アカデミーというものの存在を認識すること。これもやっぱり凛々花を拡張している。

少なくとも俺の中ではこの時点で、拡張という意味で「高性能」という言葉を使っているのだろうと仮定されてたと思います。

もう一つ性能に関わるワードとして、機能の話もちょこちょこ出てきて、例えば栄養摂取機能がないアトリが美味しいものを食べるシーンだったり、あるいは高性能なはだしを持つアトリの靴の話であったりですね。無駄なものに喜びがある、と。歯磨きが上手にできる高機能なロボではなく、歯磨きが上手にできなくてマスターに歯磨きをしてもらわなければならないロボが高性能ですから!(ドヤ)と。

機能の話が完璧な絵として表現されるのがアトリとのキスシーンの一枚絵というのもすげー良くて、このときアトリはそもそも高機能なはだしには不要ないつものローファーですらなく歩くだけなら機能性の低いヒール付きのサンダルを履いている。後にアトリはこの靴の機能として主人公くんと顔が近くなると挙げていますが、このキスシーンの絵では、その顔が近づくという機能すら放棄されていて、アトリは背伸びしていてヒールが地面から浮いてしまっている。主人公くんがいつも使っている杖がアトリのヒールのちょうど横でしっかり接地しているのと対比されながら。一枚絵の中で機能ではないということが象徴されている。

とにかく本編を通して「高性能」とはってのが一本貫かれてるんですよね。ED前のシーンもそうで、主人公くんは確かにアトリに拡張されてしまった。補償の義足をつけていたときの、かつて在ったものへの幻肢痛は、未だ見ないものへの幻視痛=希求に転換されていて。完璧なラストかつプロローグにもなっていると思います。

こんなとこかしら。何はともあれめっちゃ面白かったっす。ところで最後プロローグにもなってると書きましたが、ちゃんと続編できそうだなというのも思いました。ここをプロローグにして、一本道タイプでアカデミー編だとかいろいろあるところどころで個別分岐のアトリtrueみたいな感じのやつ。凛々花ルートみたいのではよ。