2016/02/14

応援するということについて考えている。

例えばアイドルであったり声優であったり、もともとそれらのファンと呼ばれるひとの目線には興味があった。対象には興味ないんだけど。でまあここのとこの騒ぎと、それとは別の理由での気分の低調さとが合わさってちょっとまた応援するということにについて考えている。

これは前からずっと思っているんだけど、俺は自称としてアイドルオタクになっていないのが不思議なタイプの人間で、それは2次元キャラに「ハマる」ときの評価基準でもはっきりとわかる。例えば先日読んだ『りゅうおうのおしごと!』2巻での天衣。彼女はドルオタではない俺の認識においてはアイドルに等しい。将棋においてのみ表現され、行間は表示されない。彼女が将棋を打つ姿を踊りになぞらえた作者と、その場で表現されるものの綺麗さあるいは颯爽さと彼女を過去に遡って勝手に読む俺がいるわけだ。天衣は棋譜を含めた対局における他者の意図を読むことに極めて長けていて、それの理由は思っても書きませんが、それは意味合いの異なる「真剣」という言葉に掛かっている。それを綺麗だと思うわけです。

まあ天衣の話はやめよう。応援するということについて。よく言われることに、例えばアイドルを応援するやつは仮託しているだけだという言葉がある。売れたら成功した気分になるとかですね。でもこれはたぶん違うんだと思うんですよ。もちろん俺は知らないんだけれども、ずーーーーっと思っていることがあって、応援するというのはまず最初にくるのは本当に単純に嬉しそうにしている対象を眺めていたいというシンプルな欲望なのではないか。自分のためには頑張れないという人間はいる。運転しているときにハンドルをおかしな方向に切るだとか、タバコをアホほど吸ってみるようなものを緩慢な自殺と言うらしいけども、そういうのとは違って自殺というのもおこがましいほどに欲望がない。腹が減った。ちんこが勃った。ねむい。それは欲望じゃねーだろ、と。

もう少し進む。うまるでタイヘイがスーパーで食材買って帰るシーンがある。俺はそれを見て羨ましいと思うわけだ。アパートの階段を登る。疲れている。ドアを開けたらうまるは幸せそうにポテチかなんか食ってぐーたら寝てよだれを垂らしている。タイヘイは嬉しかっただろうなと思う。ここまでは同じだが、その先として、あの作品の最終目的地は物語上からタイヘイが消えてうまるがシルフィンだとかと楽しそうに過ごしている絵で埋め尽くされることだと幻視する。これは作者も意図していると俺は思うんだけど、早すぎて反発があったのかアニメ化で意図的に遅らせたのか知らないがラッシュバックあったよね。まあともあれ、これはそこまで移入していたタイヘイのフェードアウトという点で、見るという欲望すらも放棄する方向である。

あれ、これ要するにぽってじゃね?と気づいてやる気が全解しかけたけどもう少し考えてみる。竹原のairになりたいとはどういうことなのかと考えてみると(変な笑い出てきた)、そこであるファインダーを通して彼女が綺麗だと思った景色をでっかい黒目に写す世界が平和でありますようにみたいな話である。笑いながら書いてます。何言ってんだこいつ。たまゆらを見ると世界平和を祈るようになる(真顔)。

じゃあ試しにそのエアーとやらとライブにおける観客席との違いを考えてみよう。あるいは、群衆に紛れることとクソ混んでくっさい電車のなかでイヤホンで音楽を聞くことの違いを考えてみよう。ライブの中で群衆に紛れ、ライブDVDでは基本的に表示されない「俺」はどこにいるのか。たまゆらを見ながらぽっての声をBGMにする俺との違いはどこにあるのだろうと。

さらに進む。目を瞑ってみよう。目はどうしても強いので、あえて外してみる。ここで疑似体験しているもの。BGMが聞こえる。先日いった竹原の空気を思い出そうとしてみる。この部屋くっせえな。

以下略。考えるとか言っておきながら一個も進んでなくて笑った。